エイサーの歴史

satoshi@宜野湾

2008年01月16日 15:15



エイサーの街「沖縄市」で、エイサーの勉強です。

エイサーガイド体験学習指導員養成講座 1

エイサーの歴史

会場:MBAトレーニングラボ 沖縄市地域雇用創出促進協議会

講師:大城学さん(国立劇場おきなわ調査養成課長)
エイサーの起源は、念仏踊り。袋中(たいちゅう)上人が、本土より伝えたもの。掛け声から、「エイサー」となった。

*大城さんの新説 念仏踊り以外のルーツとして、本土に行った琉球の役人が持ち込んだ? 薩摩など、琉球の役人が滞在する時には、「能」など本土の芸能を鑑賞していた。

念仏者(にんぶちゃー) 戦後まもなくまで、那覇に念仏者はいた。葬儀でお経を唱えた。泣き女もいた。

*1960年頃、島尻では「念仏歌だけ」との記録あり。

八重山の念仏歌 継母念仏、親の御恩、山伏、長者の流れ、園山念仏、春咲く花、無蔵念仏、花ぐんだん・・・等。これらは、ヤマト口、七五調(口説)のスタイルで歌われる。 本土の古い念仏歌が、残っている。

風流(ふりゅう)の文化 こうした芸能の特徴は、1)きらびやか 2)流行を取り入れる 戦後、「板チリ紙」で作った造花が、本土から沖縄までブームになった。今でも、エイサーの時の笠に造花を付けるのは、その名残り。

今のエイサーは変わってしまった? 青年と古老たちが、村で対立することがある。そんな現場に呼ばれて、話をしたことがある。変えたい青年との対立。と言っても、どこまで戻るのか? 現在、松明(たいまつ)を立てて村祭りをする所は、無い。では、松明まで戻るのか? 衣装も昔は、上布や木綿。現在は、ほとんど化繊になっている。芸能は、変わるもの。大切な精神を変えなければよい。そう話すと、青年と古老は最後に握手した。伝統的なスタイルの平敷屋エイサーでも、戦後の新曲を入れている。

色々なエイサー 大宜味や国頭では、女性だけのエイサー。本部では、踊(うどぅ)いエイサーと呼ばれる速いスタイル。


エイサーの街を宣言した沖縄市で、エイサーの勉強をしてきました。特に、最後の伝統か創作か!?というお話は、興味深く聞きました。






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