沖縄芸能おもしろ話@ビセカツさん

satoshi@宜野湾

2007年09月20日 15:14

 
 沖縄芸能の生き字引キャンパスレコードビセカツさんのお話です。嘉手苅林昌さん、登川誠仁さん、普久原朝喜さん等の楽しいお話が聞けました。

 コザ音楽ガイド養成講座にて。
普久原朝喜さん沖縄戦でも、朝喜さんが建てた家は米軍に破壊されなかった。なぜなら、床の間にエジソンの写真が! さすがの米軍も、この家だけ壊さなかった(笑) 
 戦前の沖縄では歌詞を作ることはあっても、曲は作らなかった。ナークニーの様な節に乗せて唄っていた。朝喜さんは、多くの作曲をした人。
 
 戦後になると民謡がカラオケに入り、著作権料が発生した。多くの曲で「作曲者」が名乗り出た(笑) かつては料亭で流行り、レコードにしていた。しかし、早くレコードにしないと「唄を盗まれる」こともあった。

 戦争中は方言が禁止され、民謡も歌えなくなった。それでも三線を持って軍隊に行った嘉手苅林昌さん。大阪でも隠れて三線を弾いていた。押入れに隠れて小声で浜千鳥を歌ったら、下千鳥になった。朝喜さんが最初に唄ったとされる。

 戦後の沖縄は南洋帰りの人達で、人口が増えた。南洋帰りの嘉手苅林昌さん、小浜守栄さん、山内昌徳さんらが民謡を広めた。

 十九の春という唄。福岡、与論を経由して沖縄へ。兵隊がよく唄っていた。朝喜さんは、「こんな曲、売れるか?」と言っていたが、田端義夫で大ヒットした。

 林昌さんが戦中に隠した三線が、なぜか大阪で見つかった。その後も、行方不明になり戻ったりした三線。今は、息子の林次さんが使っている。

 戦後の民謡第1号は、屋嘉節 現在では反戦歌として知られているが、作詞の金城守堅さんは自衛隊友の会の会長だった。どうして、このような歌詞を作ったか?と聞いたら、守堅さんは「敗戦の時は、県民は全部詩人だった」と語った。
 屋嘉節は1945年(敗戦の年)の9月には出来ていた。1ヶ月後には、大阪で流行っていた。密航船の時代。

 戦後間もない頃、民謡にプロはいなかった。仕事は軍作業のみ。小浜守栄さん、山内昌徳さんは炊事場で働いていた。残飯に突っ込んで、酒やハムなど持ち出す(笑) コザの園田の家には食い物と酒があったので、民謡好きが集まり同好会的に始まった。

 登川誠仁さん 戦果とは、米軍から資材を持ち出すこと。戦果といえば、登川誠仁さん。
 彼の話では、「釘がよく売れた。自転車を2台盗む方法は・・・。ハウスボーイ時代には、上司の名詞を持ち歩き検問をパスした。でも、博打で負けて1日で家を取られた」という話。
 しかし、これを一日警察署長になった時にするから・・・。変な一日所長だね(爆)

 
 ・・・などなど、楽しいお話を聞きました。もっと聞きたい人は、キャンパスレコードへ! 
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